コミュニケーションスキル [そらいろの軌跡(過去の記録から)]
看護師をしていると誰でも一度は「看護師は何を専門にしている『専門職』なのか」と考えた経験があると思います。それは看護が多くの役割を担ってきたからで、看護は時代を経て多くの職種に分かれました(理学療法士や社会福祉士や介護福祉士etc)そして、その職種たちの役割は明確です。
では看護師にしかできないものは何なのか?医師の診療補助業務もあるけれど独占業務でないですし、それだけでは『専門職』と言えないでしょう…。
そんな思いを巡らせた結果、私は看護師として「人間の健康を診断し、援助する」ことが自分の役割だと認識するようになりました。
『人としての健康』を考えた時、『意思決定ができること』だと思うようになったのは、訪問看護で出会った患者様の影響だと思います。
→『人間とは』http://hana-chacha.blog.so-net.ne.jp/2014-12-24
『ナースのお仕事』 http://hana-chacha.blog.so-net.ne.jp/2014-12-24-1
そして、患者様の意思決定を支える時、 「コミュニケーション」が看護の重要なスキルであると実感しています。
もしかしたら重大な病気になってしまったかもしれない時、 患者様は自分の病気を「知る権利」「知る事を拒否する権利」、両方の権利を有します。
でもその権利を主張したり、その意思を確認する時コミュニケーションなしでは始まりません。
そして、患者様が「知りたくない」時、医療者はコミュニケーションを十分に行わず「いわない」方法をとることがありますが、それは、本当の意味で患者様の意思決定を尊重した事になるとも思いません。
「知りたいか」「知りたくないか」で終わらせるのではなく、 患者様が「自分の生き方に自分で向き合おうとする」事(それが健康と思っている)を支えたいわけです。
「患者様がどんな風に生きてこられてきたのか」
「何を大事にしてきたのか」
「患者様は自分をどんな風に思っているのか」
「病気になってなにが一番辛いと考えているのか」
「これからどう生きたいのか」
「そのためにどうしたらいいのか」…
それを引き出すコミュニケーションスキル。
言葉に出して話す事で患者様は自分と向き合う体験をするでしょうし、 話をする事で「始めに持っていた思い」とは違った心が生まれたり、 自分で気付いていなかった自分の心に気づく事もあると思います。
医療者対患者様のコミュニケーションは、 患者様が「告げられる」体験をするものではなく、 コミュニケーションを通して患者様が「自分の生き方を見つける」体験ができるためのものにしたいと思っています。それは、ある終末期の患者様が教えて下さいました。
もう命を終える日が近いのに私の前におられるその方は父として夫として大切なものを伝えようとしていました…。
病気に侵されても人としての健康を維持する生き方をその患者様は何故できたのでしょう?
その方は、自分の生きてこられた人生をとても穏やかに語っておられました。
そして、ご家族もその話に一緒に参加していました…。
訪問をするといつもとても温かく迎えてくれました。
ご家族の会話にはユーモアがあり、笑い声と笑顔がありました。
下半身麻痺や痛みや呼吸困難感という恐怖があるはずなのに、何故優しく穏やかに過ごしていられるのだろう…。
以前に「何かをきっかけに目覚める」という話をした事がありますが、→『しあわせ』http://hana-chacha.blog.so-net.ne.jp/2014-12-25
この方にもきっとそうした出来事があったのだろうな…と思いを巡らします(*^^*)
これからもコミュニケーションの中にまだまだ気づいていなかった事と出逢う「きっかけ」となる瞬間があるかも知れないし、相手にもそんな瞬間が訪れたならなんてすばらしいのでしょう…。
この記事は各に書いたものに加筆し再掲載したものです
では看護師にしかできないものは何なのか?医師の診療補助業務もあるけれど独占業務でないですし、それだけでは『専門職』と言えないでしょう…。
そんな思いを巡らせた結果、私は看護師として「人間の健康を診断し、援助する」ことが自分の役割だと認識するようになりました。
『人としての健康』を考えた時、『意思決定ができること』だと思うようになったのは、訪問看護で出会った患者様の影響だと思います。
→『人間とは』http://hana-chacha.blog.so-net.ne.jp/2014-12-24
『ナースのお仕事』 http://hana-chacha.blog.so-net.ne.jp/2014-12-24-1
そして、患者様の意思決定を支える時、 「コミュニケーション」が看護の重要なスキルであると実感しています。
もしかしたら重大な病気になってしまったかもしれない時、 患者様は自分の病気を「知る権利」「知る事を拒否する権利」、両方の権利を有します。
でもその権利を主張したり、その意思を確認する時コミュニケーションなしでは始まりません。
そして、患者様が「知りたくない」時、医療者はコミュニケーションを十分に行わず「いわない」方法をとることがありますが、それは、本当の意味で患者様の意思決定を尊重した事になるとも思いません。
「知りたいか」「知りたくないか」で終わらせるのではなく、 患者様が「自分の生き方に自分で向き合おうとする」事(それが健康と思っている)を支えたいわけです。
「患者様がどんな風に生きてこられてきたのか」
「何を大事にしてきたのか」
「患者様は自分をどんな風に思っているのか」
「病気になってなにが一番辛いと考えているのか」
「これからどう生きたいのか」
「そのためにどうしたらいいのか」…
それを引き出すコミュニケーションスキル。
言葉に出して話す事で患者様は自分と向き合う体験をするでしょうし、 話をする事で「始めに持っていた思い」とは違った心が生まれたり、 自分で気付いていなかった自分の心に気づく事もあると思います。
医療者対患者様のコミュニケーションは、 患者様が「告げられる」体験をするものではなく、 コミュニケーションを通して患者様が「自分の生き方を見つける」体験ができるためのものにしたいと思っています。それは、ある終末期の患者様が教えて下さいました。
もう命を終える日が近いのに私の前におられるその方は父として夫として大切なものを伝えようとしていました…。
病気に侵されても人としての健康を維持する生き方をその患者様は何故できたのでしょう?
その方は、自分の生きてこられた人生をとても穏やかに語っておられました。
そして、ご家族もその話に一緒に参加していました…。
訪問をするといつもとても温かく迎えてくれました。
ご家族の会話にはユーモアがあり、笑い声と笑顔がありました。
下半身麻痺や痛みや呼吸困難感という恐怖があるはずなのに、何故優しく穏やかに過ごしていられるのだろう…。
以前に「何かをきっかけに目覚める」という話をした事がありますが、→『しあわせ』http://hana-chacha.blog.so-net.ne.jp/2014-12-25
この方にもきっとそうした出来事があったのだろうな…と思いを巡らします(*^^*)
これからもコミュニケーションの中にまだまだ気づいていなかった事と出逢う「きっかけ」となる瞬間があるかも知れないし、相手にもそんな瞬間が訪れたならなんてすばらしいのでしょう…。
この記事は各に書いたものに加筆し再掲載したものです
2014-12-25 02:55
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