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そのいのちを抱きしめたい [そらいろの軌跡(過去の記録から)]

まだ3ヶ月のおつきあいです…。

かわいらしい女の子…18歳。

8年間も頑張ってきたんだもの…
すごいよ…。

頭の中の腫瘍が広がりあと数ヶ月と宣告を受けました。

それどころかもう1、2週間で意識もなくなる可能性がある…。

10歳からの闘病生活…家族の愛情をいっぱい受けて…

わがままは言わない、前向きに頑張る子に育ったんだ…。

お母さんと二人三脚で頑張ってきた…

学校にも通信で通い続けた…

病院までの遠い道のりもお母さんの車で通った

つらい手術も抗がん剤も放射線療法も頑張った…

前向きでひたむきな娘を励まし支えてきた強くて優しいお母さん…

お別れの日が近づいていることを
お互いに気づいているんだね…

まだ18歳…
だけど「案外いい人生だったよ…」ってお母さんに言ってあげられるすごい子…。
意識がなくなっても
痙攣が起きても
最期をおうちで迎えられるよう
お母さんは決めたんだ…

しっかりと支えるよ…
いのちの光が天国に帰るまで…
大切な時間をこころ穏やかに過ごせるように…
お母さんがお母さんらしく
強く優しくあなたを支えられるように…

お母さんとあなたが優しい時間を過ごせるように…



しっかり支えたい…



この記事は過去に書いたものを再掲載しています

コミュニケーションスキル [そらいろの軌跡(過去の記録から)]

看護師をしていると誰でも一度は「看護師は何を専門にしている『専門職』なのか」と考えた経験があると思います。それは看護が多くの役割を担ってきたからで、看護は時代を経て多くの職種に分かれました(理学療法士や社会福祉士や介護福祉士etc)そして、その職種たちの役割は明確です。

では看護師にしかできないものは何なのか?医師の診療補助業務もあるけれど独占業務でないですし、それだけでは『専門職』と言えないでしょう…。
そんな思いを巡らせた結果、私は看護師として「人間の健康を診断し、援助する」ことが自分の役割だと認識するようになりました。

『人としての健康』を考えた時、『意思決定ができること』だと思うようになったのは、訪問看護で出会った患者様の影響だと思います。

→『人間とは』http://hana-chacha.blog.so-net.ne.jp/2014-12-24 
『ナースのお仕事』 http://hana-chacha.blog.so-net.ne.jp/2014-12-24-1
そして、患者様の意思決定を支える時、
「コミュニケーション」が看護の重要なスキルであると実感しています。

もしかしたら重大な病気になってしまったかもしれない時、
患者様は自分の病気を「知る権利」「知る事を拒否する権利」、両方の権利を有します。

でもその権利を主張したり、その意思を確認する時コミュニケーションなしでは始まりません。
そして、患者様が「知りたくない」時、医療者はコミュニケーションを十分に行わず「いわない」方法をとることがありますが、それは、本当の意味で患者様の意思決定を尊重した事になるとも思いません。
「知りたいか」「知りたくないか」で終わらせるのではなく、
患者様が「自分の生き方に自分で向き合おうとする」事(それが健康と思っている)を支えたいわけです。

「患者様がどんな風に生きてこられてきたのか」

「何を大事にしてきたのか」

「患者様は自分をどんな風に思っているのか」

「病気になってなにが一番辛いと考えているのか」

「これからどう生きたいのか」

「そのためにどうしたらいいのか」…
それを引き出すコミュニケーションスキル。


言葉に出して話す事で患者様は自分と向き合う体験をするでしょうし、
話をする事で「始めに持っていた思い」とは違った心が生まれたり、
自分で気付いていなかった自分の心に気づく事もあると思います。
医療者対患者様のコミュニケーションは、
患者様が「告げられる」体験をするものではなく、
コミュニケーションを通して患者様が「自分の生き方を見つける」体験ができるためのものにしたいと思っています。それは、ある終末期の患者様が教えて下さいました。

もう命を終える日が近いのに私の前におられるその方は父として夫として大切なものを伝えようとしていました…。

病気に侵されても人としての健康を維持する生き方をその患者様は何故できたのでしょう?

その方は、自分の生きてこられた人生をとても穏やかに語っておられました。

そして、ご家族もその話に一緒に参加していました…。

訪問をするといつもとても温かく迎えてくれました。

ご家族の会話にはユーモアがあり、笑い声と笑顔がありました。

下半身麻痺や痛みや呼吸困難感という恐怖があるはずなのに、何故優しく穏やかに過ごしていられるのだろう…。
以前に「何かをきっかけに目覚める」という話をした事がありますが、→『しあわせ』http://hana-chacha.blog.so-net.ne.jp/2014-12-25

この方にもきっとそうした出来事があったのだろうな…と思いを巡らします(*^^*)

これからもコミュニケーションの中にまだまだ気づいていなかった事と出逢う「きっかけ」となる瞬間があるかも知れないし、相手にもそんな瞬間が訪れたならなんてすばらしいのでしょう…。


この記事は各に書いたものに加筆し再掲載したものです

しあわせ [そらいろの軌跡(過去の記録から)]

何かがきっかけで「目覚める」ことってありますよね。

それをきっかけに、今までの自分が嘘のように前向きに前向きになるんです。


それは、人との出会いかもしれないし、
     
本との出会いかもしれない。
     
身近な人からの言葉かもしれないし、
     
人によっては宗教なのかもしれない…。

どんなきっかけであれ、自分の生き方に光を見つけた人は強い!!
もちろん、いつもいつも いいことばかりではないけれど
…
落ち込むこともあるし
、時には大きな事件も起こるけれど…
すぐそばにある“小さな出来事に気づき” 
“励まされながら”

“自分らしく”生きていけるのでしょう。

そしてそんな自分らしさを誇りに思えるとき
「私は幸せだ」といえるのでしょう…

しあわせは自分のこころだけが決められることですものね(*^^*)

この記事は過去に書いたものに加筆しました

ナースのお仕事 [そらいろの軌跡(過去の記録から)]

今回は看護についてです。

看護の仕事って知られてないですよね。
“今の”私が考える『看護』です。

 看護とは、
人間が本来あるべき健康な状態(*)を障害されている時、
対象者に対し、対象者が健康に生きることに必要な
知識や意思の力や体力を身につけるために、
自分の状態と環境を正しく認識し、課題に取り組み、
意思決定することを援助する過程である。
援助をする人も援助を受ける人も互いに影響しあい、
成長をする過程である。

 看護の専門職性は、
人間が「健康に生きるための援助を行なう」スペシャリストである。
 看護師は、
病気の人にも、病気でない人にも、
その人が「人間として健康であること」がどういうことなのかを査定する能力を持つ。

 健康が障害されている時に、対象者が健康の回復に必要な知識や
意思や体力を身につけるための援助技術を有する。
 
 病気である場合、病気の治療に当たる医師と協力し、
身体的、精神的な回復を目指し、
病気になることで新たに生じた課題に対象者が前向きに取り組めることを援助する。
 看護師は、
身体的、精神的な健康回復と共に社会的にも健康であるかを査定し、
対象者に環境の認識と変化を促すために、必要な他職種と連携し、調整を図る能力を持つ。
 看護師は、自分も環境により影響を受けながら成長している人間であることを認識しており、
看護を提供することで(影響を受け)、専門職者として成長する。
 看護の目的は対象となる人間が健康に生きることであるから、
看護師は、他の医療者が負の影響を及ぼす環境となる場合、
環境を調整する役割を担う(倫理的問題に対処する責任を持つ)。

私は、こうありたい!

*人間が本来あるべき健康な状態は、「人間とは?」で書かせてもらいました。

この記事は過去に書いたものを再掲載したものです。

人間とは? [そらいろの軌跡(過去の記録から)]

私たちは、人として生まれ育ってきたけど
“人間とは”って考えたことありますか?
と、問いかけている私は看護職(看護師というべきか保健師というべきか…)です。


看護という仕事は、一般の方からすると医師の診療の補助を主業務にしているイメージがありますが、
医師が[病気を治療する]使命を持つ職種と表現されるなら
看護師は[人が健康に生きるサポートをする]使命を持つ職種です。
ですから、人が健康であるということを学ばなくてはいけない職業なのです。

そして、看護職である前に1人の人間。未熟な人間です。

今を生きながら看護をするのですから、
自分に問いかけたり、自分の周囲や新しく出会う人に教わったりしながら成長し、
“人生観”“死生観”“看護観”を育てています。
なので、これは今の私の経験からまとめた考えです。

人間とは 、身体的・精神的・社会的な機能とニーズ(専門用語っぽいですね*1)、発達課題(*2)を有する。環境(*3)の影響を受ける中で、自分の生き方を学び、意思決定し、自己実現をする力を養い、成長していける存在である。  ちょっと*印ばっかりで分かりにくいですが…

*1身体的機能とは、人間が感染を起こすと発熱したり、腫れたりしますが、これは身体が侵入者に反応して高熱となって侵入者の勢いを衰えさせたり、侵入者をやっつける白血球が感染部位に集まってきたりする機能です。他、
暑くても寒くても体温を調整したり、血圧を正常に保ったり…生まれながらにもつ身体が健康を保とうとする機能。

*精神的機能とは、うれしいとか悲しいとか辛いとか自分の感情をコントロールしたり、不安になっても安心できるようコントロールする、という機能。

*社会的機能とは、家族の中で役割を持ったり、友達を作ったり、職場で役割を持ったり、地域で周囲の人と上手くつき合って生活する機能。人間は生まれながらにしてもっているし、これらを正常に保ちたいというニーズ(Needs)をもっている。
*2発達課題とは、人間の発達段階(乳児期、幼児期、少年期、思春期、青年期、壮年期、老年期…ってやつ)ごとの、身体や心や社会的な成長の目標値とでもいうのでしょうか。3ヶ月で首が据わるとか、7ヶ月でお据わりできるとか、青年期でアイデンティティーの確立とかです。
*3環境については、その人その人で考える環境があると思われるので、これは私が定義したものです。
環境とは、その人が存在している時に、周りに存在する、物的・人的・文化的な、その人が生きることに影響を及ぼすものである。様々な条件に左右され、変化するものである。
 
人間は、常に環境の影響を受けるが、環境を認識することで自分が影響を及ぼし変化させることもできる。
そして、もう一つ
健康とは…
健康(死)とは、自分の身体的・精神的・社会的に障害された機能、未充足なニーズ、発達課題に対して、前向きに取り組む力を発揮し成長、自己実現していけることであり、病気と共存する場合や、死を迎える場合にも健康であり得る。

人は誰も死んでしまうものだから、死も健康に生き抜く延長線上にあります。

私の考えは、健康とは身体レベルのことだけではないから、病気であっても、死を迎える間際も健康であり得るということです。

そして、看護職として健康で生きるということを学び続けたい。

あーやっぱり、ちょっと固すぎますか…。

この記事は過去に書いたものを再掲載したものです。

休日の使い方 [山と道]

仕事では深刻な状況に向き合いますが
休日はここ数年身体を思い切り動かしています(*^^*)
子供たちが成長して自分たちの世界を持つようになって
私も自分の仲間作りを始めたのです

今はほぼ毎週MTB、ロードレーサー、トレイルランニングと山道や舗装路を走っています
早起きして犬のお散歩を終わらせて…
8時ごろからお昼頃までの4時間前後子どもの頃のように『がむしゃらに』身体を動かしています^^;
たぶん最高の贅沢…ですね(*^^*)

人のいのちに触れること [そらいろの軌跡(過去の記録から)]


日々ぱたぱたと暮らしています…。

最近出逢った方のことを考えている日が多くなりました…
膵癌の終末期にある方です。

元気だった頃、どんな姿で活躍されていた女性なのか…
どのような価値観で生きてこられたのか…
心穏やかな時間を過ごし、語ってもらいたいな…と思っていますが
その方はもうご自分の命が週単位(数日単位)だと捉えなければならない今、絶望の淵にいらっしゃいます。

診断を受けてから2年間『癌』を否認し、民間療法を続けてこられましたがトイレに立つ体力が無くなり、ものが喉を通らなくなった今、「自分を癌と認めざるを得なくなり、『癌だから辛い』」と…。

ずっと病気と向き合えず、不安を隠し一人で闘ってきたのでしょう…
元気になることだけを考え、自分を励ましながら生きてきた様子が見え隠れします。

周りもそんな彼女を励まそうと彼女の否認を受け止めていたのでしょうね。

本当は一番怖かったこと、一番誰かと分け合いたかったことは、死の恐怖…だったのではないかな…。

だから、今彼女が死を意識したことは「可哀想」とか「残念なこと」ではなく、死の恐怖を少しでも分けてもらい一緒に考えるチャンスでもあると思うのです…。
そんなことを妹さんと話しながら少しでも彼女が平穏な時間を過ごせるように考えています…。
彼女の弱音を否定したり叱咤激励するのではなく、そのまま受け入れていきましょうね…、妹さんの気持ちも看護師がサポートしますよと…。

痩せているのにむくみと腹水ではち切れそうなお腹を抱えベッドに沈み込む身体…
その身体と心が少しでもリラックスできるようアロマオイルを使いマッサージしながら話しかけると「気持ちいいわ…」とウトウト…。

少しずつ、生き方や価値観に触れるような会話を持ちつつ…
ケアはご本人の希望に合わせながら清潔のケアをして、排泄と利尿剤とビタミンの点滴を少量…
それにメインで介護に当たる妹さんへの精神の支えとなること。

明日はどんな話しができるかな…

=追記=
この記事を書いた数日後に彼女は最期を迎えられました。
辛い葛藤があった後、今晩お別れのときがやってくるという日の訪問は静かな音楽を流し、ラベンダーの香りで静かに時を過ごしました。
その日はすぐに出れるよう、早めに風呂に入り、トレーニングウエアで休みました(実はトレーニングウエアで訪問看護しています)。
彼女が旅立たれたのはまだ朝の気配もない時間帯…お顔は穏やかでご家族も静かにその死を受け止めておられました。彼女と彼女を支えられた周囲の皆様へ…大切な時間を共に過ごさせて頂き感謝いたします。
ご冥福をお祈りします…

この記事は過去に書いたものを再掲載しました。

シュトーレン [食のこと]

ここ数年クリスマスの季節にはシュトーレン作りしています(*^^*)
ですが…今年はこんな時期になってシュトーレン作りしてます(>_<)

今年はドライフルーツを漬け込んだのもちょっと遅めでしたね
計画していた日についついパンを焼いてしまったら
シュトーレン作りまで気力が残っていなくて…
あとへあとへと今日になってしまいました( ̄▽ ̄;)

本当はクリスマスまでに少しずつ切ってたべるものなのに…
今年の食べごろはクリスマス後となります^^;

あきらめたらって言われちゃいそうですが
手間をかけて何かを作るのはちょっとした贅沢なのですよね(*^^*)

ソーシャルキャピタル [地域看護の仕事]

地域で働くようになって目に止まった言葉です(*^^*)

人々の協調行動を活発にすることによって、社会の効率性を高めることのできる、
『信頼』『規範』『ネットワーク』といった社会的仕組みの特徴である
とする定義が広く理解されています。

ソーシャル・キャピタルは、「社会問題に関わっていく自発的団体の多様さ」「社会全体の人間関係の豊かさ」あるいは『地域力』『社会の結束力』ともいわれます。

地域力とは、地域社会の問題について市民や企業をはじめとした地域の構成員が、自らその問題の所在を認識し、自律的かつ、その他の主体との協働を図りながら、地域問題の解決や地域としての価値を創造していくための力のことをいいます。

私は地域で働く保健師として、このソーシャルキャピタルを育む地域づくりを考えていきたいと思っています(*^^*)

にもかかわらず笑うこと [そらいろの軌跡(過去の記録から)]

私は仕事柄、人生の過渡期にいたり危機的状況の渦中にいる方と接してきました。

それは病いであったり老いであったり、死に直面した重い病状の方々です。

そしてそんな時であっても周囲に笑顔を向けられる多くの方々を私は知っています…。

私にはそんなすてきな出逢いがたくさんあります…。

そして看護はそんな方々と過ごす時間であり看護している私自身が大きく心を揺さぶられ、深い愛情を感じるのです…。

その方のお宅に伺い、お身体の状態を観察する…。
体温や血圧、呼吸パターン、むくみ、排尿や排便の様子など手足やお腹に触れたり聴診器で確認しながら、前回の訪問から変わった出来事は無かったか、困ったことは無かったか、心配事はないか…。
それから…ついつい喧嘩しちゃったり、憎まれ口をきいちゃった反省の気持ちや秘密の出来事を聴いたり、嬉しい出来事なども…。

私はあはは…と笑いながらその話しにのっかって相づちをうち、患者さんもご家族もあははと笑う…。
その一方では症状の重さや今後起こりうるであろう変化を指導しながら…。

病状は深刻なのにその空間には笑顔があり、ユーモアがある…。

その優しさに人の強さを感じるのです…。

私は、看護師だからこんな優しさに支えてもらえるのだなあと思います。

だから看護師として応えられるような自分でいたい…そう思うのです…。

ドイツにおけるユーモアの定義は「にもかかわらず笑うこと」なのだそうです。

語源はもともと“体液”という意味のラテン語だそうです。

ユーモアと笑いは人間だけに与えられた貴重な能力なのだそうです…。

これは、上智大学のアルフォンス・デーケン氏の言葉です…

この記事は以前の記録から再掲載したものです

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